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カテゴリー  [ 映画・ドラマ ]

映画と文学

映画と文学


 奇術師、興行師であるジョルジュ・メリエスが劇映画を撮り始めた当時は、サイレント映画で台詞はなかった。やがてストーリーの複雑化に伴い字幕入り映画が作られるようになるが、さらに俳優自身の口から音声として発せられるトーキー映画の時代に移ると、文字の読めない観客にとっても鑑賞できるようになった。以後多くの小説や戯曲が映画化されていくことになり、多くの小説家や劇作家がハリウッドに集まっていく。
 このように文学や演劇は、映画と密接に関係しあってきたのである。映画が第七芸術と呼ばれる所以は、芸術の歴史で七番目に生まれた芸術だからであるが、先行する芸術を有効に取り入れることができたわけである。そこで、映画と小説、映画と戯曲の関係をまとめたいと思う。

【映画と小説との関わり】
 小説の読者より映画の観客が多いのは、言葉の問題が大きい。全国的から見ても、英語を話せる人口より英語を読める人口の方が少ないため、小説を読む人は限られているわけである。このような事情から、小説家はハリウッドで小説以外の仕事(映画のシナリオ創作・原案・構成・台詞のチェック)もして生活費を稼ぐことになる。

【映画と小説の違い】
 映画と小説の大きな違いは、前者は映像芸術であり、後者は言語芸術である。それは動く映像に対し、文字の列である。
 このように、映画と小説(文学)はまったく異質な表現形態であり、それぞれ独立の創造物であるといえる。

【小説から映画化される際の問題点】
 映画化にあたり、絶対的基準のない「美」をめぐった問題が常に起こる。小説において読者はそれぞれの美意識をもとに個々の頭の中で映像化してつくりあげていく。一方、この小説から映画化される場合、千差万別の美意識をもった多くの観客が、製作者等によってつくられた一つの映像を見ることになるため、そこには誰もが「美しい」と感じるとは限らない俳優が出演していることもあるだろう。
 また、映画化するということは、一つの原作小説の解釈を一つに限定することであり、そのためには原作にないことも付け加えることもあり、あるいは原作にある余計な描写は省略することもある。
 つまり、文字という抽象的なものから映像という具体的なものへの変換が映画化ということであり、小説をそのまま映画に差し替えるということは不可能なのである。小説とその映画化作品は同じ根から出て咲いた二つの花と考えると、小説と映画の間には優劣はないことが頷ける。それぞれの領域内で花を咲かせられれば、それでよいのである。

【映画と戯曲との関わり】
 映画と演劇はどちらも台本の存在および俳優が演じるという共通項があるが、芸術の起源として古代ギリシア時代から存在した演劇の方が映画よりも圧倒的に歴史がある。映画が発展していく契機を作ったジョルジュ・メリアスはもともと演劇界で活動していた人であるし、日本でも初期に作られた映画は歌舞伎俳優の出し物の記録である。急激な俳優の需要とそのギャランティの事情により、多くの俳優は演劇の盛んなブロードウェイから映画の中心のハリウッドへと移っていった。このように、映画は当初から演劇と密接に関係していたのである。

【映画と演劇の違い】
 映画も演劇も、観客は外出して、映画館あるいは劇場へ向かう。どちらも日常空間から非日常空間への飛躍によって鑑賞することになる。不特定多数の観客達が照明の落とされた客席に座ってスクリーンの映像や舞台上の俳優を観るといった姿勢は同じである。しかし、映画俳優と舞台俳優は演技をする点では同じであるが、その状況は異なるものである。
 演劇では実際に舞台上にないものも、あるものとして観客に示さなければならないことがある。それは舞台俳優の演技力にかかることである。その点、映画では簡単にそれらを映像に映し出すことができる。このことから演劇は、優れた戯曲、俳優の演技力さえあれば成立するということがわかる。また、時間の捉え方の違いも重要である。映画の場合、観客はすべて過去の映像をスクリーンの中に観ることになり、それは観客席に流れる時間と全く違う時間なのである。完成された映画の中で流れているこの時間は、何回上映されようが全く同じ流れ方をしている。一方演劇の場合、観客席の時間と俳優が演じている時間は同時進行している。同じ時間を共有し、それは二度と繰り返されない時間である。これらの違いを把握すれば、それぞれの台本、戯曲とシナリオにおいても、根本的に異なるものであると言えるだろう。

【今日の映画化作品について】
 私は高校生の時にスティーブン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』(1993年)を映画館で観た。深く感動したため、その後すぐに原作を読んだ。それ以後、今日まで映画も原作もみかえしていないため記憶が曖昧な部分もあるが、「文学と映画は根本的に違う芸術である」ということが深く頷ける描写を、当時この映画の中で感じたことを思い出す。
 映画『シンドラーのリスト』は、冒頭と最後の現在の場面ではカラーで、戦争時代の場面ではモノクロで撮られていた。また、このモノクロの戦争時代の場面でも、一人の赤いワンピースを着た少女は、ナチスに虐殺されるまでに何回かカラーで現れ、たくさんのユダヤ人が殺されるモノクロ映像の中で引き立つように工夫されていた。このような色彩の効果は原作にはないものであり、映画だからこそできる描写であると思う。原作の物語に、さらに一人の少女の生涯を織り込む手法あるいはアイデアは素晴らしいと感じた。どの場面であったか忘れてしまったが、たしか一回だけ蝋燭もカラーで描写されている箇所があったかと思う。このように原作にはないメッセージがところどころに散りばめられているところに感銘を受けた。「優れた映画を作るためには原作に手を加えもするし余分な部分は省略もする」というスピルバーグ監督の姿勢は潔く説得力がある。




ジョン・アービング原作・脚本『サイダーハウス・ルール』における原作小説と映画化作品の違い

 アービングの原作小説はこれまでに何度も映画化されているが、『サイダーハウス・ルール』ではじめて自ら脚色した。彼は小説と映画、あるいは、読者と観客との相違点をはっきりと把握しつつ、映画がビジネスであるという前提をもとに13年かけて脚本を書いたのである。

刈り込み作業
小説をそのまま映画に置き換えることは時間的観点からみても不可能であるため、小説のある部分は省略を余儀なくされる。

① 登場人物の性格描写・人格描写
 小説ではいくらでもその人物を言葉で描写し続けることができるが、映画ではその人物の行動を映像で描くことにより人物像を観客に提示する。
② 理由の不明瞭
 映画では、眠れない時にエーテルを吸って恍惚状態になり眠りにつくということしかわからず、なぜエーテルなのかという点が明確ではない。しかし、深く追求せずともその事実さえわかればいいのである。
③ 登場人物
 小説ではホーマーの初体験の女性であり、物語のその後の展開においても重要な登場人物であるメロニィであるが、時間的制約のある映画においては、メロニィを中途半端に描くよりは全く登場させない方がよいと判断した。
④ 小説を構成していた多くの要素
 ホーマーが能動的なヒーローに変わる前の煮え切らない性格に、観客がうんざりしてしまうのを避けるため。
⑤ 喜劇的要素(コミカルなシーン)
 小説の中で随所に描かれている喜劇的要素はほとんど削除され、社会に対して断固とした意見を主張するドクター・ラーチの実用的なメッセージが、映画ではやや生真面目に強調されている。
⑥ 「低俗」なシーン
 テーマが「堕胎」ということで、下半身にまつわるさまざま「低俗」な描写が含まれるが、映画においては観客を不愉快にさせないために「低俗」なシーンはいっさい削除されている。
 *「低俗」という言葉は、アービング自身が『マイ・ムービー・ビジネス』(村井智之訳、2000年6月、扶桑社)の中で使っている。
⑦キャラクターの犠牲
 映画ではその時間的制約から、ある人物を充分に描くために他の人物について妥協しなくてはならないことがある。ホーマーに感情移入しやすくするために、恋人同士であるウォリーとキャンディの仲の好さをほとんど描かず、ホーマーとウォリーが親友と呼べるほど親しい関係になるところも描かず、ホーマーとキャンディの恋愛関係が描かれていく。観客の非難からホーマーを救うため、このような省略によりキャンディが犠牲となり、キャンディとの情事にたいするホーマーの責任も軽くなるのである。

変 更・シフト・追加
① 「語り」から「会話」(あるいは「独白」)へ
 小説ではほとんどの対立が「語り」によって説明され表立って表現されていないが、映画では対立関係を明確にし、アンジェラ看護婦にホーマーの資格が違法であることを「会話」によって主張させている。
② 主役をドクター・ラーチからホーマーへ
 映画の観客は、映画の中で登場人物が成長していく姿に魅かれていくものである。ラーチはすでに完成された人格でこれ以上成長しないが、ホーマーのその未熟さから脱していく可能性を、観客は感じ取り自分と「同一視」するであろう。
 アービングにとって最も重要なキャラクターはドクター・ラーチであったが、読者と観客の違いをはっきり把握しているゆえに、あまり抵抗を感じることなく、ドクター・ラーチからホーマーへと比重をシフトさせることに至ったのである。
③ 小説における「文章表現」から映画の「見た目が重要」へ
 観客がシャーリーズ・セロンという女優を見たら、ホーマーが彼女に夢中になると、観客に確実に思わせなくてはならない。映画においては誰もがそう思える俳優をキャスティングしなければならない。
④ 言葉の問題を解決するために台詞を挟む
 ドクター・ラーチ役のマイケル・ケインはロンドン出身の俳優であるが、役の設定では生粋のアメリカ人である。同じ英語でも、アメリカ人、イギリス人によって発音が異なる。たとえ方言指導を受け、訛りを消すことができたとしても、聴く人が聴けばどこの出身かわかってしまう。そこでアービングは、ドクター・ラーチの母親は移民だったという台詞を挟み込むことで、ドクター・ラーチがなぜアメリカ英語で話さないかを裏付けたのである。

 小説では原稿にして800ページ、本にして500ページの長さであったが、映画化にあたり脚本にしてわずか136ページにまで物語を圧縮させた。このようにアービングは原作小説と脚本を手がけることで、読者に向けて書くことと、観客に向けて書くことの違いをはっきりと認識することができた。それは、小説と映画の性質や機能の違いについてはっきりと把握しているからこそできたことである。その結果、映画『サイダーハウス・ルール』はアカデミー賞の脚色賞を受賞したのである。






劇作家と映画界との関わり合いについて


【演劇と映画 】
 演劇と映画の共通項として、台本と俳優の存在があげられる。しかしこの二つの要素は、それぞれ異なるものである。つまり、演劇は観客と時間を共有しながら一つの世界をつくり上げていく。一方映画は、スクリーンに映し出されている物語は俳優が過去に演じた、すでに完成されたものとして時間が流れていく。人々が映画館で観るスクリーン上の物語は、過去の出来事である。
 このように演劇と映画では時間的な捉え方が異なるため、必然的にその台本も、演劇のための戯曲か、あるいは映画のためのシナリオかによって描き方も違ってくる。さらに俳優においても、一回一回が本番である舞台に立つのか、あるいはカットカットで映像を撮るカメラの前に立つのかによっても、俳優としての役割が異なるのである。

井上ひさし
 井上ひさしは、小説家であり、同時に劇作家でもあり、どちらの分野でも傑出した作品を次々に書いている。劇団の座付き作者である彼は、自分の作品に納得のいかないものは違約金を払ってでも初日を延期にしたり、公演を中止にしたりする。これに対して演劇にも映画にも関わる岩松了は、『食卓で会いましょう』(1999年10月、ポット出版)の中で次のように述べている。

 「 ・・・私の周辺にも作家と演出家という仕事を兼ねている友だちが多くいる。そいう人たちの多くが、作家である自分を大切にしていることを私は残念に思う。 私は演出家でありたい。それが私にとって演劇にたずさわる、ということだ。劇作家としての私は、むしろ、演劇に対する批評家だと思っている。」

 これは小説の映画化、戯曲の映画化にもつながる考え方である。演劇が成立するのは戯曲という言語表現の段階ではなく、演出においてである。同様に映画化は、映画監督によって映像に捉えられた時点で成立するのであり、言語表現の段階では映画とは関係がないのである。このような岩松了の考え方であれば、井上ひさしの初日遅延、公演中止はもっと少なくなったであろう。
 演劇では戯曲を意欲的に書き、一定の評価も得ているが、映画に提供した原作戯曲は『日本人のへそ』だけであり、原作小説も井上ひさしの作品の中では傑出したものではないと思われる。これは、戯曲にしろ小説にしろ、その作品自体の完成度が高ければ高いほど映画化にするにあたり困難が生じる。つまり、映画化に適しているのは、完成度の低い、手を加えやすい作品であると言える。『日本人のへそ』は演劇的には優れているのだが、その映画化作品は、映画というより演劇の記録とも捉えられるような撮り方なのである。映画としては優れた映像表現とは言えないのである。
 井上ひさしは、『往復書簡 拝啓水谷八重子様』(共著:水谷良重、1995年9月、集英社)の中で、「物語とことば」を含む芸術形態を代表するものとして次のようにあげている。

【「物語とことば」を含む芸術形態】
小 説 ・・・・・・物語+ことば
演 劇(芝 居)・・物語+ことば+俳優の身体
映 画 ・・・・・・物語+ことば+俳優の身体+監督の目

 すなわち、スタート地点にある「物語+ことば」は、小説においては受け手に直接伝えられるが、演劇(芝居)においては俳優の身体を媒体にして伝えられ、映画にいたってはさらに監督の目、すなわち映像を媒体として伝えられるのである。
 次に、どのような経過を辿って受け手に伝えられるのかを図に示す。

小 説
物語+ことば→受け手

演 劇(芝 居)
物語+ことば→俳優の身体→受け手

映 画
物語+ことば→俳優の身体→映像→受け手

 このスタート地点である「物語+ことば」を映画の観客に直接伝えたい、つまり原作をそのまま忠実に映画化することを望む渡辺淳一は、そうならない映画界への不満を持っているが、井上ひさしは、小説と戯曲の領域をはっきりわきまえており、それぞれの分野で作品を生かすことを目指すのである。




原作:ベルンハルト・シュリンク『朗読者』(平成15年6月1日、新潮文庫)
映画:スティーブン・ダルドリー監督『愛を読むひと』(2008年)


【原作と映画の違い】
カット
・ ハンナと情事を重ねるためにマイケルが授業をさぼっていることを知った時、ハンナが激怒する場面。
・ 旅先での情事の翌朝、早く起きたマイケルが寝ているハンナに宛て、「朝食を取りに行ってくる」と書いたメモをテーブルに置き、ベッドを離れ朝食を持って帰った時、「どうして黙って離れるの!」とハンナが激怒し号泣する場面。
・ 強制収容所跡を見るためにヒッチハイクした運転手との会話の場面。
・ ゼミの教授の埋葬と、そこで再会したゼミで一緒だった男との会話の場面。
・ 出所当日に自殺したハンナの遺体と向き合う場面。
・ マイケルの父親。(原作では父親の存在が大きく描写されているが、映画ではほとんど登場しない。)
・ ハンナが刑務所生活を送った部屋に、ギムナジウムの卒業式で校長と握手している青年マイケルの写真が掲載された地方新聞を見る場面。

付け足し
・ 旅先で遭遇した聖歌隊の賛美歌に聴き入っている礼拝堂に座るハンナと、それを見つめるマイケルの場面。
・ 公判中、ハンナの秘密を知ったマイケルが拘束されているハンナと面会するために受付を通るが、思い留めて引き返す場面と、ハンナが緊張しながら面会室で面会者を待つ場面。
・ 公判中、ゼミで一緒の学生からハンナとの関係を疑われる場面。
・ 初めてマイケルから送られたカセットテープを、テープレコーダーで再生し、マイケルの朗読の一声に驚き、ストップボタンを押す場面。
・ 刑務所で本を借り、マイケルからのカセットテープを聴きながら、文中の「The」に印しながら文字を覚えていく場面。
・ 18年の刑を服し、出所間際に再会したハンナが、マイケルが去った後に漏らす期待を挫かれた溜め息。

変 更
・ 主人公の名前。(原作ではミヒャエル・ベルクだが、映画ではマイケル・バーグ。)
・ 公判中、ハンナがマイケルの存在に気付いていたのか、映画では不明瞭。
・ マイケルが、ハンナが文盲であることに気付く場所。(原作では強制収容所跡だが、映画では公判中。)
・ マイケルがハンナの秘密(不利なハンナを救える可能性の高い事実)を裁判で証言すべきか否かを相談する相手。(原作では父親だが、映画ではゼミの教授。)
・ 15歳のマイケルと30代前半のハンナが別れてから、26年振りに対面する場所。(原作では刑務所の中庭の栗の木の陰にあるベンチだが、映画では刑務所の広い談話室のような無機質な部屋。)
・ マイケルとハンナが26年振りに会話する描写から受ける印象。(原作では、ハンナが出所し、近所に住まい、「朗読はもう終わりなのね?」というハンナの問いに、「どうして?」と答えるマイケルだが、映画では、マイケルの表情や態度、言葉が非常に淡泊であり、老いたハンナとこれから先、再び男女の関係に戻ることはないといった予感を受ける。)
・ ハンナの死後、強制収容所から生き延びた娘に、ハンナとの関係を尋ねられた時のマイケルの返答。(原作では男女の関係であったことを告白するが、映画では答えを濁す。)
・ エンディング。(原作では、マイケルがハンナと自分の物語を執筆するが、映画では、娘と二人でハンナの墓地に行き、ハンナとのことを話しながらフェードアウトする。)

 このように原作から映画へと媒体の移行に伴い、カットや付け足し、変更された部分が多々存在した。ハンナの印象も、原作と映画とでは随分と違っているような気がする。つまり、原作でのハンナは少年マイケルを手懐け支配し、少々荒々しい女性という感じを受けるが、映画ではその印象が薄まり、繊細な女性らしさを感じさせる。特に、ストッキングを履くところをマイケルに見られる場面や、地下室にある石炭を運んできたマイケルの真っ黒に汚れた顔を見る場面、マイケルの朗読に耳を傾ける場面、仕事先で昇格を言い渡される場面、再会後の絶望の溜め息は、ハンナ役のケイト・ウィンスレットが、自然でいて印象に残るような素晴らしい演技をしていたと思う。おそらくこれらの場面は、原作から受けた私のイメージとぴったりフィットしていたからかもしれない。文庫本にして247ページの原作を、2時間の映画に凝縮させるために、また、文字を読む小説と映像を観る映画との違いから、カットや付け足し、台詞や登場人物の比重などの変更も当然されなければならないものであることが、両者を比較することで理解できた。今後も、両者の側面から様々な作品を鑑賞したいと思う。
 尚、第81回アカデミー賞でケイト・ウィンスレットが最優秀主演女優賞を受賞した。





映画『愛を読むひと』

原題:The Reader
監督:スティーブン・ダルドリー
製作:アンソニー・ミンゲラ/シドニー・ポラック
製作総指揮:ボブ・ワインスタイン/ハーベイ・ワインスタイン
原作:ベルンハルト・シュリンク
脚本:デビッド・ヘア
撮影:クリス・メンゲス/ロジャー・ディーキンス
美術:ブリジット・ブロシュ
編集:クレア・シンプソン
音楽:ニコ・ムーリー
製作国:2008年アメリカ・ドイツ合作映画
上映時間:2時間4分
配給:ショウゲート

参考文献
重政隆文『映画と文学』2001年4月、大阪芸術大学通信教育部発行



(2009年執筆)



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[ 2012/04/18 07:00 ] 映画・ドラマ | TB(0) | CM(0)
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