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音楽レッスン帳

クラシックピアノ・ジャズピアノ・エレキギター・作曲・DTM・オーケストラ・パーカッションのレッスン日記 ♪ 姉妹サイト「ニョキリサ」もよろしくお願いします(๑˃̵ᴗ˂̵)

カザルス 『鳥の歌』

 134年前の今日、つまり1876年12月29日は、20世紀を代表するチェリスト、パブロ・カザルス(1876 - 1973)の誕生日です。指揮者や作曲家でもありました。今日は彼の愛奏曲、 『鳥の歌』 を聴きましょう。原曲はキリストの生誕を祝福し鳥たちが歌うという、スペイン・カタルーニャ地方に伝わるクリスマス・キャロルです。




『鳥の歌』
チェロ: パブロ・カザルス
ピアノ: マルタ・モンタニェス・マルティネス (マルタ・カザルス・イストミン)
録 音:1956年 プエルトリコ




 36年以降のスペイン内戦では、フランコ政権への抗議とファシズムに反対し、祖国スペインを離れ、39年にフランスのプラド、55年にプエルトリコに本拠を移し、二度と祖国の土を踏むことはありませんでした。プエルトリコはカザルスの母と妻マルタ(上の映像でピアノ伴奏している)の故郷です。50年代後半からは、アルベルト・シュバイツァーとともに核実験禁止の運動に参加するなど、平和活動家としても知られています。





『鳥の歌』
スピーチ/チェロ:パブロ・カザルス
録 音:1971年10月24日(国連デー)



 こちらは、亡くなる2年前、94歳のカザルスが最後の国際舞台となった「国連デー」記念コンサートです。プログラムは終わり、指揮台を降りたカザルスは客席に向けて話しました。


 「私はもう十四年もチェロの公開演奏をしていませんが、今日は弾きたくなりました。
 これから短いカタルーニャの民謡 『鳥の歌』 を弾きます。私の故郷のカタルーニャでは、鳥たちは平和(ピース)、平和(ピース)、平和(ピース)!と鳴きながら飛んでいるのです。
 この曲はバッハやべートーヴェンや、すべての偉大な音楽家が愛したであろう音楽です。この曲は、私の故郷カタルーニャの魂なのです。」


 このカザルスのスピーチと 『鳥の歌』 の演奏は、歴史的な出来事として語り継がれています。祖国への思慕と世界平和への祈りが、胸に強く押し迫る演奏だと思います。







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[ 2010/12/29 18:51 ] 音楽鑑賞 | TB(0) | CM(0)

引っ込み思案な孔雀

7年程前に制作のチョーカー 『引っ込み思案な孔雀』 です。

引っ込み思案な孔雀

ネック部分は取り外し可能なので、

ブローチにもなる2WAY使用となっています。

チョーカー

素材は銀とガラスです。

孔雀の首は段々のひらひらで、

本来虹色の羽は大人しめ配色のガラスにしました。

ブローチ

こだわりは、孔雀の冠を留め具にした点と、

おはじきのような素朴な羽、

扇状に羽を広げられない内気な性格描写です。

まさに、引っ込み思案な孔雀です。

この性格は心なしか、作者の本質の投影ではないかと。。。








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[ 2010/12/28 20:04 ] 手芸 | TB(0) | CM(0)

祖父母の手作り

 私の母方の祖父は、舶来中古ピアノの修理や解体、調律などをする傍ら、東京の音楽学校で調律を教えたり、オーケストラでヴァイオリンを弾くなどしていました。1954年にバックハウスが来日の際、東京で演奏会を聴きに行ったらしいのですが、祖父が元気だった頃、私はまだ幼かったので、その時の話を直接聞くことができなかったのが残念です。



お箸

 これは、その祖父が作ったお箸です。象牙の飾りがポイントとなっています。私が小学生の時にいただいたものですが、使うのももったいなくて、今まで大事にしまっていました。祖父が亡くなって20年以上も経ちますが、最近になってこのお箸のことを思い出し、10日程前からこれで食事しています。粗食が一段とおいしく感じられます。



まり

 これは、祖母の作ったまりです。祖母も手先が器用で、機織り機でいろいろなものを作っていました。祖父母は愛知県の武豊、私は埼玉県と離れて住んでいたため、夏休みぐらいしか交流がもてなかったのですが、糖尿病のため目が見えなくなった祖母の手をひき、田んぼの中を散歩したのを覚えています。現在このまりは、書棚に飾っています。



 祖父は大変な変わり者だったようですが、隔世遺伝なのでしょうか、私もよく変わり者扱いされます。でも平気です。ミトコンドリアに感謝です。











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[ 2010/12/27 12:38 ] 手芸 | TB(0) | CM(0)

たまご&誕生

7年程前に作ったシルバーリング 『恐竜のたまご』 です。

恐竜のたまご1

虹色に光る母岩付オパールがいのちを宿しているような気がしたので、

あえてリングは何も手を加えず、

シンプルな梨地(艶消し)仕上げにしてあります。

恐竜のたまご2

【質問1】
このたまごのお母さんは誰でしょう?







こちらも同じ時期に制作したシルバーリング 『双子の誕生』 です。

双子の誕生1

石はロマンティックなムーンストーンローズクォーツです。

「今、生まれる」 瞬間を表現するために、

留め枠をギザギザの形状にしました。

リング部分には少し彫刻が施してあります。

双子の誕生2

【質問2】
この赤ちゃんが少し大きく成長しました。誰でしょう?






















【答え】
質問1:『化石発掘
質問2:『ぷっくりぺアさかな






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[ 2010/12/26 15:02 ] 手芸 | TB(0) | CM(0)

人魚と月

7年程前に制作した銀のバングル 『人魚の涙』 です。

人魚の涙1

人魚が涙を流し、水の泡となって、

暗い海の底深くへと消えてゆきます。





人魚の涙2

しかし、その純粋で清らかな涙は、

やがて繊細な光を放つ真珠へと変容します。





ある夜の静寂な海原に、

満ちゆく白い月が映されました。

その月の光に浮かび上がった真珠は、

儚くも光を湛え、長い年月を経て流され、

波打ち際に打ち寄せられたのでした。





打ち上げられた月

それが、真珠の指輪 『打ち上げられた月』 です。







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[ 2010/12/25 14:28 ] 手芸 | TB(0) | CM(0)

クリスマス・イブにそりすべり

 ルロイ・アンダーソン作曲の『Sleigh Ride(そりすべり)』(1948年)は元々は管弦楽曲でしたが、後に作詞家ミッシェル・パリッシュにより歌詞がつけられた他、吹奏楽など様々な編成によって編曲され演奏されています。現在ではクリスマス・ソングの定番となり、多くの歌手によって歌われていますね。オリジナル版では、スレイベル、ウッドブロック、ルーテなどオーケストラではあまり使われない楽器を使用しています。




L.アンダーソン:『Sleigh Ride』

歌:ハリー・コニック・ジュニア





 一方、モーツァルト作曲の『そりすべり』(作曲年不明)は、オーケストラのための舞曲です。こちらも、数種類の鈴やポストホルン(バルブを持たない郵便馬車のホルン)など使用頻度の低い楽器を使用しています。
 余談ですが、このポストホルンを用いた曲として…

♪ ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 変ロ長調 『ポストホルン(郵便屋の角笛)』 RV.363
♪ モーツァルト:セレナーデ 第9番 ニ長調 『ポストホルン・セレナーデ』 K.320
♪ マーラー:交響曲 第3番 ニ短調
などがあります。




モーツァルト:3つのドイツ舞曲 K.605 より

第3番 ハ長調 『そりすべり(そり遊び)』




 どちらの曲も心が弾む楽しい曲です。




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[ 2010/12/24 07:00 ] 音楽鑑賞 | TB(0) | CM(0)

マタチッチ最後の来日公演 『ブル8』

 ロヴロ・フォン・マタチッチ(1899年 - 1985年)の演奏をはじめて聴いたのは、チェコ・フィルのブルックナー交響曲第5番と7番でした。マタチッチが存命中の頃は、私はまだ幼かったので生で聴くことはできなかったのですが、後に彼の重厚で豪快な音楽に魅了され、さらに食わず嫌いだったブルックナーが好きになり、クナッパーツブッシュやシューリヒト、クレンペラー、ヴァント、朝比奈隆などの演奏と聴き比べて楽しみました。ブルックナーのスケルツオはどれも、一度聴いたら忘れられないほどのインパクトで、寝ても覚めても頭の中でブルックナーが流れていた、若かりし10代を振り返っています。






ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ノヴァーク版)から

第4楽章 Feierlich, nicht schnell (荘重に、速すぎず)

指揮:ロヴロ・フォン・マタチッチ
演奏:NHK交響楽団
録音:1984年3月7日 NHKホール(東京)




 日本で親しまれたマタチッチが9回目に来日の際、N響定期でブルックナーの交響曲第8番を振った時の模様です。亡くなる10か月前の85歳とは思えない迫力と繊細さ、慈しみ、厳しさのある演奏です。しばらく聴いていなかった同団の75年の『新世界』や『ジークフリート』、『パルジファル』などを、もう一度聴きなおしてみたいと思います。








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[ 2010/12/23 19:11 ] 音楽鑑賞 | TB(0) | CM(0)

古典派音楽

 古典派音楽とは、17~18世紀のバロックと、19世紀のロマン派の間に位置づけられ、18世紀中ごろから19世紀初頭にかけての音楽様式です。オーストリアの首都ウィーンが活動の中心であったことから、「ウィーン古典派」ともよばれます。

 ヨーロッパでは、17世紀ごろから古代ギリシャやローマの芸術を規範とし、調和や普遍性をめざす芸術運動とする古典主義が文学や美術でおこりはじめます。音楽における古典派は、直接的に古典主義運動の影響をうけたわけではありませんが、論理的で調和のとれた形式が確立した点は共通しています。代表的な作曲家は、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンで、とくに彼らの時代を「盛期古典派」とよび、それ以前の時代を「前古典派」とよぶこともあります。また、19世紀末から20世紀にかけて、ストラヴィンスキーらを中心としておこった「新古典主義」とは、明確に区別されます。

 この時代のヨーロッパの社会体制は、絶対王政から近代民主主義へと移行する激動の時期にあたり、古典派初期には、音楽家たちはバロック時代と同様に王侯貴族のために作曲し演奏するのが一般的でした。その後しだいにフリーの音楽家も登場しはじめ、1789年のフランス革命により市民階級が台頭すると、一般市民に音楽を教えたり、楽譜を販売したり、演奏会を開催して生計をたてることも可能となりました。 このような社会体制の変化の影響により、とくに大きく発展したのが器楽の分野です。

 古典派は、バロック時代の装飾や、過度の感情表現を排除し、調和のとれた形式を生みだしました。その代表が複数の主題の展開を原理とするソナタ形式です。提示部-展開部-再現部の3部分から構成され、主調と属調の対比を明確な図式にしめしたソナタ形式は、当時の音楽に広く浸透し、さまざまな音楽の土台となりました。 これまでの連続性を好むバロックから、明確な部分を強調することでコミカルさをかもしだしたことが古典派音楽の大きな特徴といえます。バロック時代でも、ある民謡の旋律を使うというパロディがありましたが、古典派では音楽の内部だけで面白さを可能にしたのです。

 この時代に確立した器楽様式として、ソナタ、交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲などがあげられますが、それ以降の音楽に大きな影響を与えました。これらの音楽は、公開演奏会でも数多く演奏され、楽譜も盛んに出版されました。

 声楽の分野では、ドイツ歌曲がハイドンやモーツァルトにより確立されます。オペラでは、グルックが1762年の「オルフェオとエウリディーチェ」などにより歌詞と音楽の調和をめざした「オペラ改革」をこころみます。グルック以降、オペラでも合唱や器楽演奏が重視されるようになりました。古典派の時代の初期までは、宮廷劇場で上演されるオペラ・セーリアが主体でしたが、大規模な宮廷オペラはしだいに敬遠されるようになり、かわって発展してきたのが喜劇的なオペラで、新たに登場した巡業歌劇団や民間劇場で上演され、市民の人気を集めました。

 ソナタ形式の発展にもっとも寄与したのは交響曲ですが、イタリア・オペラの「シンフォニア」とよばれる序曲が進化したもので、前古典派時代のワーゲンザイルやモン、J.S.バッハの息子たちが盛んに作曲し、「交響曲の父」と称されるハイドンへ受け継がれます。また、弦楽5部構成の確立やクラリネットなど新しい管楽器が登場し改良されたことにより、オーケストラの編成が大きく発展し、表現力も飛躍的に豊かになりました。

 ハイドン(1732~1809)は、生涯の大半をオーストリアのアイゼンシュタットに居城をもつエステルハージ侯爵につかえ、108曲の交響曲などをとおして、古典派の可能性を発展させました。モーツァルトとベートーヴェンは定職にはつかず、作曲料や演奏会の入場料、楽譜の出版、個人教授などで生計をたてました。モーツァルト(1756~1791)は、室内楽曲、協奏曲、交響曲、オペラなど多数のすぐれた作品を残し、ベートーヴェン(1770~1827)は、内面的感情を描写した9曲の交響曲をはじめ、丹念に推敲された作品を作曲し、ロマン派の作曲家たちにも大きな影響を与えました。

 交響曲の第3楽章は、ハイドンまではメヌエットが置かれることが通例でしたが、ベートーヴェンによってメヌエットの代わりにスケルツォ(もともと、冗談、ひやかし、いたずら、という意味をもつ)を置くという試みもされました。また、ハイドンにしても、6曲からなる作品33の弦楽四重奏曲『ロシア四重奏曲』すべてにスケルツォを使っています(『スケルツォ四重奏曲』と呼ばれることもあります)。このほかに、強弱や音域のコントラストといったコミカルさがあげられ、これまでの惰性で進むバロックに対して、推進力を与える古典派音楽は、「冗談」という発想と馴染む時代であったといえるでしょう。






ハイドン:弦楽四重奏曲 第38番 変ホ長調 op.33-2 から
(ロシア四重奏曲 第2番 『冗談』)

第1楽章 Allegro Moderato






ハイドン:弦楽四重奏曲 第38番 変ホ長調 op.33-2 から
(ロシア四重奏曲 第2番 『冗談』)

第2楽章 Scherzo (Allegro)






ハイドン:弦楽四重奏曲 第38番 変ホ長調 op.33-2 から
(ロシア四重奏曲 第2番 『冗談』)

第3楽章 Largo e sostenuto






ハイドン:弦楽四重奏曲 第38番 変ホ長調 op.33-2 から
(ロシア四重奏曲 第2番 『冗談』)

第4楽章 Finale (Presto)




(2008年執筆)



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[ 2010/12/22 10:38 ] 音楽史 | TB(3) | CM(0)

海がめ&双子のさかな

昨日ご紹介したタツノオトシゴ 『さびしんぼ』 に友達ができました。



海がめの産卵

『海がめの産卵』 と



ぷっくりペアさかな1

『ぷっくりペアさかな』 です。





3匹とも7年程前に生まれました。

素材は銀で、『海がめの産卵』 はチョーカー、

『ぷっくりペアさかな』 はラリエットです。

ぷっくりペアさかな2

中身は空洞になっていて、ころころかわいいです。




左斜め後ろから

あら?海がめが卵(天然石:ブルーレース)を産んでいます。

友達がたくさん増えそうで 『さびしんぼ』 も嬉しそう、

よかったよかった。






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[ 2010/12/21 21:01 ] 手芸 | TB(0) | CM(0)

さびしんぼ

さびしんぼ

7年程前に制作した、タツノオトシゴのペンダント、

『さびしんぼ』 です。

素材は銀ですが、背びれには金箔をのせてあります。

サンゴ礁などに尻尾を絡め、海流にゆらゆら漂う姿をイメージし、

胴体は段々のひらひらという流動的な趣向にしてあります。

『さびしんぼ』 のネーミングの由来はその名の通り、

この表情と佇まいが儚げでさびしそうだからです。



誰か友達になってあげてください。





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[ 2010/12/20 18:01 ] 手芸 | TB(0) | CM(0)

バルトークについて

バルトーク・ベーラ Bartók Béla (1881-1945)

 ハンガリーの作曲家、民族音楽学者、ピアニスト。ハンガリーとその周辺諸国の民謡を収集・研究し、民謡研究の成果と西欧芸術音楽の伝統、20世紀初頭の新技法を融合した独特の作風を確立。20世紀前半を代表する作曲家である。



【時代区分】
~1905年
 習作期。ブラームス、リスト、ワーグナー、R・シュトラウスから影響を受けた後期ロマン派様式をみせる。
多くは先人達同様にジプシー音楽的な要素を取り入れる形。
1906年~1923年頃
 コダーイと共にハンガリー王国の各地から民謡収集を行い、民謡を編曲したピアノ曲などを作る傍ら、民謡の語法を科学的に分析した形で作品に取り入れ始めた時期。また、民謡以外にもドビュッシーやストラヴィンスキー、新ウィーン楽派など当時の最先端の音楽の影響も強く反映されているが、末期には民謡の語法を消化し、独自のスタイルをほぼ確立。
1926年~1930年頃
 無調的な和声と、強烈な推進力を伴う緻密な楽曲構造を特徴とする作品が多い。
バロックや古典派の影響など、新古典主義の流れに乗っている面も見られる。
1930年~1940年
 円熟期。前時期の緻密な楽曲構造を引き継ぎながら、和声的にはより明快で、より新古典的なスタイルを打ち出した時期であり、数々の傑作が生まれる。
1943年~1945年
 アメリカ時代。平明な新古典主義的傾向が著しく、細かい動機よりも旋律的な要素を重視する傾向。



【人 物】
 バルトーク(1881-1945)はハンガリー南部のナジセントミクローシュ(現ルーマニア領)に生まれた。アマチュア音楽家で農業学校の校長であった父は1888年33歳で病死し、以後一家は転々と居を移し、ピアノの巧みな母が音楽教師をして生活を支えた。バルトークは幼時から非凡な楽才を順調に伸ばし、11歳で自作のピアノ小品やベートーヴェンのソナタを公開演奏会で弾くまでになった。
 ブタペスト音楽院在学中(1899~1903年)は、レーガーのいとこに当たるハンス・ケスラー(1853―1926)に 作曲、フランツ・リストの弟子トマーン・イシュトバーン(1862―1940)にピアノを師事。在学中優秀なピアニストと評価される一方、作曲面では、R・シュトラウスの《ツァラツストラはかく語った》から衝撃を受けて創作意欲を燃やした。卒業の年、民族独立運動の高まりに刺激を受けて、ハンガリーの国民的英雄の生涯を題材にした交響詩《コシュート》を書き、大成功を博した。
 1905年、パリのルビンシュタイン・コンクールに参加したが、ピアノ部門ではバックハウスに次ぐ第2位にとどまり、作曲部門でも入賞を逸した。しかし、ハンガリーでは知られていなかったドビュッシーの音楽を知るという収穫を得ることができ、また民謡について科学的アプローチを始めていたコダーイに出会い、1906年から共同でハンガリー農民音楽の収集研究を始める。以後第一次世界大戦で調査活動が不可能になるまで、ハンガリー国内をはじめ、セルビアやルーマニア、ブルガリア、スロバキア、さらに北アフリカにまで巡り民謡採集を続ける。当初、民族運動の音楽面での実践として政治的関心から民謡に向かったが、作曲家としてのバルトークは、こうして収集した民謡を、多くの著作や編曲を含む様々な形で紹介するだけでなく、その音組織やリズムなどの構成要素を分析、抽出して自己の音楽語法の基礎に据えた。 技法上はドビュッシーの印象主義やシェーンベルクの表現主義の影響を受け入れつつ、緊密な構成のうちに民族的な生命力の漲る優れた作品を書いた。
 1907年、26歳でブダペスト音楽院ピアノ科教授となり民謡の編曲なども行う。この時点でも、彼の大規模な管弦楽作品はまだブラームスやR・シュトラウス、さらにはドビュッシーの影響を感じさせるものであるが、ピアノ小品やヴァイオリン協奏曲第一番、弦楽四重奏曲第一番などでは民謡採集の影響が顕著に表れている。またブゾーニの推挙も得て、ピアニストとしてだけではなく作曲家としての名も次第に浸透し始める。



バルトーク:2つのルーマニア舞曲 Op.8a Two Romanian Dances opus 8a (1910) から

1. Allegro vivace

ピアノ:バルトーク・ベーラ
録音:1929年






バルトーク:アレグロ・バルバロ Allegro Barbaro(1911) Sz.49

ピアノ:バルトーク・ベーラ



 1911年コダーイらと新ハンガリー音楽協会を設立し若い作曲家たちの作品発表の場を確保しようとしたが失敗し、同年作曲のただ1つのオペラとなった《青ひげ公の城》も受け入れられず、民謡研究と《ルーマニア民俗舞曲》(1915)など民謡に基づくピアノ曲の作曲に没頭する。バレエ音楽《かかし王子》の初演が成功した1918年から、国外での名声の高まりによってハンガリーでの立場も好転し、さらに《青ひげ公の城》が初演され好評を得た。



バルトーク:ルーマニア民族舞曲 Rumanian Folk Dances(1915) Sz.56 から

1. 棒踊り Joc cu bata(Stick Dance)
2. 飾り帯の踊り Braul (Round dance)
3. 踏み踊り Pe loc (In One Spot)
4. 角笛の踊り Buciumeana (Dance of Buchum)
5. ルーマニア風ポルカ Poarga Romanesca (Romanian Polka)

ピアノ:バルトーク・ベーラ






バルトーク:ソナチネ Sonatina(1915) Sz.55

1.バグパイプ吹き Dudások(Bagpipers)
2. 熊踊り Medvetánc(Bear Dance)
3. 終曲 Finale

ピアノ:バルトーク・ベーラ






ピアノのための組曲 Suite opus 14 (1916)

1. Allegretto
2. Scherzo
3. Allegro molto
4. Sostenuto

ピアノ:バルトーク・ベーラ
録音:1929年



 1921年から22年にかけては二つのヴァイオリン・ソナタを書き、イェリー・ダラーニのヴァイオリンと自らのピアノで初演した。さらにダラーニに同行してイギリスやフランスで演奏旅行をするが、この時ラヴェルやストラヴィンスキーと会っている。この過渡期の二つのヴァイオリン・ソナタは、それまでに作曲した中で和声上、構成上最も複雑な作品であり、これを境に作風を転換させ、大規模な抽象形式ととり組んでいく。
 1923年には、ブダペスト併合50年祭のために委嘱を受けて《舞踏組曲》を作曲した。その後三年ほど作品を発表せず演奏会活動にやや力を入れるが、1926年にピアノ・ソナタやピアノ協奏曲第一番を皮切りに新しい創作期に入り、フルトヴェングラーの指揮と自らのピアノで初演する。ここから民族音楽の経験を、彼が尊敬する西欧の芸術音楽の伝統、特にバッハ(ポリフォニーと対位法)、ベートーヴェン(動機労作)、ドビュッシー(和音の色彩)、および当時の古典主義(ソナタ、協奏曲などの形式)と結合して、力に満ちた独自の輝かしい様式を生んだ。



バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番 (1937年-1938年) Sz.112 から

第1楽章 Allegro non troppo

ヴァイオリン:ゾルターン・セーケイ
指揮:ウィレム・メンゲルベルク
演奏:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1939年3月23日 アムステルダム (初演




 演奏家としては、1929年から30年にはアメリカやソビエトへの演奏旅行を行い、シゲティやカザルスらと共演している。彼の弦楽四重奏曲としてもっとも高い評価を受けている第三、第四弦楽四重奏曲、《弦楽器、打楽器、チェレスタの音楽》(1936)、《二台のピアノと打楽器のソナタ》(1937)などでは、黄金分割、さまざま音階の使用、和声の可能性の拡大(時々無調にまで至る)、鮮明な明晰さをもつアイデアの創造、新たなリズムの発見、変奏の非常に精妙な操作など、縦横に駆使した独自の理論の下に民族的であると共に、極度に複雑な構造と感情的な力強さへと彼を導く。この時期に書かれた、六巻からなるピアノ曲集《ミクロコスモス》(1926-37)をはじめ、 彼の作品にしばしば用いられているものに、生気に満ちた「ブルガリア風リズム」がある。これは、スラヴ系のブルガリアなどの民族音楽に使われる二拍と三拍の単位を不均整に結合した拍子である。また、「パルランド・ルバート」と呼ばれる、話し言葉のように拍が伸縮する自由なリズムがあり、さらに、旋律と一体となった民謡の様々なリズム型がある。音組織や和声、形式の面でもバルトークの語法は非常に興味深いが、このように彼は、民族音楽の豊かさとその生命力を示し、そこに深く根ざしたユニークな音楽を創造したのであった。



バルトーク:ミクロコスモス (1926-1939) Sz.107 第6巻から
From Mikrokosmos, Progressive Piano Pieces vol. VI

140. Free Variations (Variations libres/Freie Variationen). Allegro molto
142. From the Diary of a Fly (Ce que la mouche raconte/Aus dem Tagebuch einer Fliege). Allegro
149. From Six Dances in Bulgarian Rhythm (Six dances bulgares/Sechs Tänze in bulgarischen Rhythmen): no. 2

ピアノ:バルトーク・ベーラ
録音:1940年



 1939年、ナチズム支配の政治状勢に絶望、弦楽四重奏曲第六番を決別の歌として書き上げたのち、第二次世界大戦二年目の1940年にアメリカに亡命する。コロンビア大学での研究の他、ヨーロッパから持ち込んだ民俗音楽の研究に没頭するが、1943年初頭、健康を害して入院してそれらの活動はすべて中断する。当時ボストン交響楽団を率いていた指揮者クーセヴィツキーに依頼され《管弦楽のための協奏曲》を驚異的なスピードで完成し、これを契機に創作意欲を回復した。さらに、ヴァイオリン・ソナタを演奏会で取り上げる際にアドバイスを求めに来て親しくなったメニューインの 依頼で《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》にも着手し、1944年には両曲の初演にそれぞれ立ち会う。出版社との新しい契約で収入面の不安もやや改善され、健康状態も取り戻して民俗音楽の研究も再開した。しかしこれも束の間で、《ピアノ協奏曲第三番》と《ビオラ協奏曲》を着手するも未完に残したまま、1945年9月26日、ニューヨークのブルックリン病院で白血病のため没した。前者はほとんどできあがっており、草稿段階にとどまった後者とともに、友人でハンガリー系の作曲家タイバー・セアリー(シェールイ・ティボール)によって補筆完成された。



【作曲技法】
 作曲家としてのバルトークは、ドイツ・オーストリア音楽の強い影響から出発したが、民俗音楽の収集による科学的分析から、その語法を自分のものにしていった一方、他方では同時期の音楽の影響を受けたという両者とのバランスの中で作品を生み出すという独自の道を歩んだ。ただし、ソナタ形式を活用するなど西洋の音楽技法の発展系の上で成立しており、音楽史的には新古典主義の流れの一人と位置付けられている。彼にとって民族音楽は、自分自身の音楽の表現と本質、長・短調組織の克服、新たなリズム、旋律、音色への強い刺激の源泉であった。



民族音楽
 バルトークとコダーイは西欧の影響のない農民の民族音楽を収集し、さらに研究範囲を東欧に拡大し保存運動を生涯の仕事とした。民族音楽とかかわる彼の仕事には三つの段階がある。

① 伴奏づけなど直接の採用
② その素材による動機労作
③ その様式に従った新作

 第一次大戦までの原始主義者達のうち、ストラヴィンスキーはバロックの調性音楽を目指して狭義の新古典主義をとり、プロコフィエフもまた19世紀風の民族主義ロマン派のスタイルに後退した。しかしバルトークは、1920年代、30年代に全く独自の音楽語法を組織化して数々の傑作を生み出している。ただ、彼も1943年以後のアメリカ時代における作品群では、新古典主義的、あるいは民族的ロマン主義の作風に後退するに至るが、両大戦間のヨーロッパ滞在中の主要作、たとえば第三、第四弦楽四重奏曲、《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》、《二台のピアノと打楽器のためのソナタ》等では特異な語法による厳しい姿勢が見られる。一幕オペラ《青ひげ公の城》は、華やかなオーケストレーションの一部をR・シュトラウスに、歌詞の節付けの方法をドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》に、それぞれ影響を受けているが、その旋律とリズムとバラード様式はすべてハンガリーによるものである。まさにバルトークは芸術基盤を民族音楽から引き出したアイデアや原理、方法の上に置こうとしていたのである。



黄金分割
 黄金分割あるいは黄金比とは、一つの線分を長・短二つに分ち、全体の長さと長い方との比例が、長い方と短い方との比例と一致する、すなわちその長短の比が1:X=X:(1-X)となるような分割法のことで、造形美術の分野では中世には神の比例と称されたほどの非常に美しい比例関係である。この式から導かれる数の関係は中世末期のイタリア人のフィボナッチが見出した数列であらわされる。それはつねに第一項と第二項の和が第三項になるような数列である。調的なカデンツ構造を放棄してもなお、二小節のモチーフ、四小節の小楽節、 八小節の大楽節といった楽式から脱していない作曲家もあるが、バルトークはこのようなシンメトリックな楽節構成や倍音和声を形式の基本におくことの矛盾を強く感じ、これに代わって楽節のどんな細部も、また大規模な部分の分割をも同じ比例で統一的に実地できるような比例関係を求めたのである。



バルトーク:二台のピアノと打楽器のためのソナタ (1937年) Sz.110 から

第1楽章 Assai lento

ピアノ:スヴャトスラフ・リヒテル/アナトリー・ヴェデルニコフ
パーカッション:Snegirev, Nikulin, Volkonsky
録音:1956年





参考文献

著者:ポール・グリフィス/訳者:石田一志『現代音楽小史 ドビュッシーからブーレーズまで』(音楽之友社 1984年)
著者:アガサ・ファセット/訳者:野水瑞穂『バルトーク晩年の悲劇』(みすず書房 1993年)
著者:ひのまどか『バルトーク―歌のなる木と亡命の日々』(リブリオ出版 1989年)
著者:伊東信宏『バルトーク―民謡を「発見」した辺境の作曲家』(中央公論社 1997年)
著書:エルネー・レンドヴァイ/訳者:谷本一之『バルトークの作曲技法』( 全音楽譜出版社 1998年)
編集者:高橋浩子・中村孝義・本岡浩子・網干 毅『西洋音楽の歴史』(東京書籍 1996年)
著者:柴田南雄『西洋音楽史 印象派以後』(音楽之友社 1967年)
著書:オリヴィエ・アラン/訳者:永冨正之・二宮正之『和声の歴史』(白水社 文庫クセジュ 1969年)
編集兼発行者:淺香 淳『新音楽辞典 楽語』(音楽之友社 1977年)
日本語版監修:角倉一朗『U.ミヒェルス編 図解音楽事典』(白水社 1989年)










(2008年執筆)




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[ 2010/12/19 17:14 ] 音楽史 | TB(1) | CM(0)

蝋燭を描いた画家

 クリスマスシーズンにちなんで、蝋燭を描いた二人の画家について書きたいと思います。



 17世紀フランスの画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、民衆的な題材を扱う作品を描き続け、プッサン、ル・ナン兄弟、ル・シュウール、ル・ブランなどの画家たちと同等に評価されるほど、生前から世俗的にも成功を博しました。しかし、没後は長らく世間から忘れ去られ20世紀になって再発見されますが、現存する真作はわずか40点余りです。

ゆれる炎のあるマグダラのマリア

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)

《ゆれる炎のあるマグダラのマリア》




 白いブラウスを胸元まで下ろし、肩を大きく露わにした女性のしなやかな肌は、闇の中に浮かび上がる蝋燭の光に照らされ、肉感的な美しさをもって罪を悔いる繊細な心理描写を伴い描かれています。そこに静かに流れる時間と淑やかな女性を感じさせますが、その穏やかさの中に細く燻る蝋燭の黒煙と鞭と骸骨の存在が、一種の不気味さを醸し出しています。
 ラ・トゥールの画風は、「昼の情景」と「夜の情景」に大別されますが、いずれも光を効果的に駆使していることが特徴です。しかし、色調、画風、着想などの面で大きく異なるため、彼の芸術は謎の部分が多く残されています。主題の多くは、キリスト教の聖人や聖女、街かどでヴィエルを奏でる盲目の辻音楽師、トランプをするいかさま師などです。これらの題材の中に共通する「光と闇」、「聖と俗」という対比の中に、ラ・トゥールのキリスト教、家族、労働といった価値観を見出すことができます。


 一方、1890年福岡県に生まれた高島野十郎(たかしま やじゅうろう)は、「世の画壇と全く無縁になる事が小生の研究と精進」(2006年、弦書房、多田茂治『野十郎の炎』、125ページ)として、修行僧にも似た孤高の生活を貫きました。主に個展を作品発表の場とし、一貫して写実を追求しました。生前はほとんど無名でしたが、野十郎が初めて世間に紹介されたのは、没後11年経った1986年の福岡県立美術館での本格的な個展でした。

蝋燭

高島野十郎(1890-1975)
《蝋燭》



 赤茶色の背景、波打つ黄金色の炎、強いオレンジ色の火口、木製の台に落ちた楕円の黒い影。同じような構図の《蝋燭》を生涯に渡り何十枚も描き続け、そのうちの一点も売られることなく、すべて有縁の人々に手渡しで献呈し続けました。「私の《蝋燭》は絵馬なのだよ」(2008年、求龍堂、川崎 浹『過激な隠遁 島野十郎評伝』、246ページ)と野十郎は言います。つまり彼は、人間の中の仏性に絵馬のように祈りを込めた《蝋燭》を奉納し続け、献呈された人は、この奉納品によって自分の中の仏性に気付く可能性を持つというものです。《蝋燭》に比べて作品数が少ない《月》も非売品ですが、月ではなく「闇」を描きたかったと野十郎は言います。また、「空気」を描いたという《春の海》には焦点がありません。評論家から「岸田劉生の精神を学べ」と批評された野十郎は、「非有、非無、そしてそこから、或いはそれを支える一つの主題がない。それは“慈悲”だ。」(2008年、求龍堂、島野十郎『島野十郎画集 作品と遺稿』、210ページ)と答えました。ここに、「闇」や「空気」を描いた野十郎の深遠な精神性と彼独自の哲学が裏付けされているかのようです。今を生きている炎と、残りの命である蝋芯、一人一人の心の闇を静かに照らし明らかにする光。そこに野十郎の行き着いた境地である「慈悲」が超然と横たわっています。


【総 括】
 ラ・トゥールの《ゆれる炎のあるマグダナのマリア》は、キリスト教神話を題材とし、蝋燭は大画面のごく一部として扱われ、宗教的な雰囲気を強めてはいるものの蝋燭自体に神性はなく、むしろそれは物理的な闇を照らすための小道具にすぎません。女性の表情や、聖書、十字架、鞭、骸骨といった「目に見えるもの」から、メッセージとして連想する何かを受け手は感じ取るでしょう。
 一方、野十郎の《蝋燭》は、根底には仏教思想があり、「無」の関門を乗り越えた「悟り」の境地に至った彼独特の主題がここにあります。画面の中央に一本の蝋燭が灯り、焦点はずばり蝋燭そのものであり、そこには高潔で神聖な「慈悲」が漂います。「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事……それは洋人キリスト教者には不可能」(前掲書、『過激な隠遁 島野十郎評伝』、275ページ)という彼の言葉からも、唯一の神を信仰する西欧キリスト教社会と、「神は自分の中にいる」という東洋的神仏の世界の違いが如実に表されています。蝋燭自体から野十郎のメッセージが直接伝わってくるような、それはいかようにも解釈できる曖昧な言葉ではなく、野十郎自身がこのようにしか描きようがなかった必然的な産物であるような気がします。ラ・トゥールと野十郎の「蝋燭」を比較することによって、思想においても主題においても本質的に類を異にした画家であることがわかります。



参考文献
・ジャン=ピエール・キュザン/ディミトリ・サルモン『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』(創元社 2005年)
・多田茂治『野十郎の炎』(弦書房 2006年)
・川崎 浹『過激な隠遁 高島野十郎評伝』(求龍堂 2008年)
・高島野十郎『高島野十郎画集 作品と遺稿』(求龍堂 2008年)








(2009年執筆)



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[ 2010/12/18 15:32 ] 美術 | TB(1) | CM(0)

カメレオンのハヤワザ

カメレオン1
カメレオン2


6年程前に制作したチョーカー 『カメレオンのハヤワザ』 です。

素材は銀です。

ネック部分は取り外し可能なので、その日の気分により

皮紐やチェーンなどに付け替えてネックレスにもできます。

木の枝(ネック部分)に絡めたカメレオンの尻尾、

長い舌(シルバーチェーン)の先には

捕えた虫(国産パール)が…という構図がこだわりです。

ボディはカメレオン独特のいぼいぼでリアリティを増したので、

磨き方はあえて、存在感を和らげるため

梨地(光沢を抑えた)仕上げにしました。

それでも目立つので、身に着けるにはちょっと勇気がいります。

どこかにチャレンジャーさんはいませんか?





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[ 2010/12/17 13:40 ] 手芸 | TB(0) | CM(0)

ベートーヴェンの誕生日に…

 240年前の今日、1770年12月16日頃にベートーヴェンは生まれました。「頃」というのは、12月17日に洗礼を受けたことしかわかっていないためです。ともあれ今日は、フルトヴェングラー指揮、ウィーン・フィルの 『田園』 を聴きましょう。





ベートーヴェン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68 『田園』

第1楽章<田舎に着いた時の愉快な感情>
第2楽章<小川のほとりの情景>
第3楽章<田舎の人々の楽しい集い>
第4楽章<雷雨、嵐>
第5楽章<牧歌、嵐の後の喜びと感謝>

指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー 
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1952年(たぶん)



 9つの交響曲の中でベートーヴェン自身が標題をつけたのはこの 『田園』 だけです。初演は1808年12月22日、アン・デア・ウィーン劇場で 『運命』 とともにベートーヴェン自身の指揮で行われました。この性格的に対照的な 『運命』 と 『田園』 は、ほぼ同時進行で作曲されました。


 この演奏はおそらく1952年のスタジオ録音だと思います。私がフルトヴェングラーの音楽を聴いた最初の録音です。高校1年生の時でした。この出会いがきっかけでしばらくフルトヴェングラー漬けの日々…、現在では30枚ほどのCDが集まりました。


 最後に、フルトヴェングラー指揮の 『田園』 の中で一番好きな部分は…




第2楽章のラスト(7:38から)、木管楽器群による小鳥たちの語らいです。思わず幸せなため息がでてしまいます。





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[ 2010/12/16 00:00 ] 音楽鑑賞 | TB(0) | CM(0)

ド根性ガエル&化石発掘

右下からアップ
上からアップ
ネックレス


逆立ちしてかんガエル』 の姉妹作品の 『ド根性ガエル』 です。

ヘッドの素材は銀と真鍮、

ネックレス部分は四つ編みした茶と黒のレザーと、

真鍮古美のチェーンで二連になっています。

銀と真鍮の組み合わせは実のところ大変な力仕事、

意外と手間がかかっています。

手のかかった子供ほどかわいいと良く聞きますが、

まさにこのカエルがそうで、ネーミングの由来にもなっています。

銀をいぶすことで真鍮の色が映え、味がでます。

地味ながらのこだわりは、カエルの右後足が、

銀の母体から飛び出した留め具のデザインです。

こうすることでヘッドが少し傾き、趣がでます。

どちらかというと、男性に身に着けてもらいたいカエルです。

Tシャツにデニムといったシンプルな装いにいかがでしょうか。





化石発掘


こちらも、同じ素材、技法を用いたネックレス 『化石発掘』 です。

こだわりは、割れたカケラのように無作為なヘッドの側面です。

特に首と尻尾の骨が小さいので難しかったです。

恐竜の化石に見えますか?






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[ 2010/12/10 18:14 ] 手芸 | TB(0) | CM(0)

逆立ちしてかんガエル

ブローチ
ネックレス
ヘッドなしネックレス


二年ほど前に制作したアクセサリー 、『逆立ちしてかんガエル』 です。

素材は銀とガラスです。

ブローチ、ネックレス、ヘッドなしネックレスと3WAYです。

ネックレス部分はグリーン系のビーズで

チューブ状のペヨーテステッチとなっています。

こだわりは、大きなくりくりした目と水かきです。

胴体はいろいろな色形のガラスを組み合わせ、

フュージングしました。

銀のうねりや銀粉は、水流やしぶき、水の泡を表し、

透けたガラスでみずみずしく元気なカエルです。













しかし、なんといっても…

かわいいカエル

愛嬌は本物にはかないません。


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[ 2010/12/05 21:08 ] 手芸 | TB(0) | CM(0)
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