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音楽レッスン帳

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バルトークについて

バルトーク・ベーラ Bartók Béla (1881-1945)

 ハンガリーの作曲家、民族音楽学者、ピアニスト。ハンガリーとその周辺諸国の民謡を収集・研究し、民謡研究の成果と西欧芸術音楽の伝統、20世紀初頭の新技法を融合した独特の作風を確立。20世紀前半を代表する作曲家である。



【時代区分】
~1905年
 習作期。ブラームス、リスト、ワーグナー、R・シュトラウスから影響を受けた後期ロマン派様式をみせる。
多くは先人達同様にジプシー音楽的な要素を取り入れる形。
1906年~1923年頃
 コダーイと共にハンガリー王国の各地から民謡収集を行い、民謡を編曲したピアノ曲などを作る傍ら、民謡の語法を科学的に分析した形で作品に取り入れ始めた時期。また、民謡以外にもドビュッシーやストラヴィンスキー、新ウィーン楽派など当時の最先端の音楽の影響も強く反映されているが、末期には民謡の語法を消化し、独自のスタイルをほぼ確立。
1926年~1930年頃
 無調的な和声と、強烈な推進力を伴う緻密な楽曲構造を特徴とする作品が多い。
バロックや古典派の影響など、新古典主義の流れに乗っている面も見られる。
1930年~1940年
 円熟期。前時期の緻密な楽曲構造を引き継ぎながら、和声的にはより明快で、より新古典的なスタイルを打ち出した時期であり、数々の傑作が生まれる。
1943年~1945年
 アメリカ時代。平明な新古典主義的傾向が著しく、細かい動機よりも旋律的な要素を重視する傾向。



【人 物】
 バルトーク(1881-1945)はハンガリー南部のナジセントミクローシュ(現ルーマニア領)に生まれた。アマチュア音楽家で農業学校の校長であった父は1888年33歳で病死し、以後一家は転々と居を移し、ピアノの巧みな母が音楽教師をして生活を支えた。バルトークは幼時から非凡な楽才を順調に伸ばし、11歳で自作のピアノ小品やベートーヴェンのソナタを公開演奏会で弾くまでになった。
 ブタペスト音楽院在学中(1899~1903年)は、レーガーのいとこに当たるハンス・ケスラー(1853―1926)に 作曲、フランツ・リストの弟子トマーン・イシュトバーン(1862―1940)にピアノを師事。在学中優秀なピアニストと評価される一方、作曲面では、R・シュトラウスの《ツァラツストラはかく語った》から衝撃を受けて創作意欲を燃やした。卒業の年、民族独立運動の高まりに刺激を受けて、ハンガリーの国民的英雄の生涯を題材にした交響詩《コシュート》を書き、大成功を博した。
 1905年、パリのルビンシュタイン・コンクールに参加したが、ピアノ部門ではバックハウスに次ぐ第2位にとどまり、作曲部門でも入賞を逸した。しかし、ハンガリーでは知られていなかったドビュッシーの音楽を知るという収穫を得ることができ、また民謡について科学的アプローチを始めていたコダーイに出会い、1906年から共同でハンガリー農民音楽の収集研究を始める。以後第一次世界大戦で調査活動が不可能になるまで、ハンガリー国内をはじめ、セルビアやルーマニア、ブルガリア、スロバキア、さらに北アフリカにまで巡り民謡採集を続ける。当初、民族運動の音楽面での実践として政治的関心から民謡に向かったが、作曲家としてのバルトークは、こうして収集した民謡を、多くの著作や編曲を含む様々な形で紹介するだけでなく、その音組織やリズムなどの構成要素を分析、抽出して自己の音楽語法の基礎に据えた。 技法上はドビュッシーの印象主義やシェーンベルクの表現主義の影響を受け入れつつ、緊密な構成のうちに民族的な生命力の漲る優れた作品を書いた。
 1907年、26歳でブダペスト音楽院ピアノ科教授となり民謡の編曲なども行う。この時点でも、彼の大規模な管弦楽作品はまだブラームスやR・シュトラウス、さらにはドビュッシーの影響を感じさせるものであるが、ピアノ小品やヴァイオリン協奏曲第一番、弦楽四重奏曲第一番などでは民謡採集の影響が顕著に表れている。またブゾーニの推挙も得て、ピアニストとしてだけではなく作曲家としての名も次第に浸透し始める。



バルトーク:2つのルーマニア舞曲 Op.8a Two Romanian Dances opus 8a (1910) から

1. Allegro vivace

ピアノ:バルトーク・ベーラ
録音:1929年






バルトーク:アレグロ・バルバロ Allegro Barbaro(1911) Sz.49

ピアノ:バルトーク・ベーラ



 1911年コダーイらと新ハンガリー音楽協会を設立し若い作曲家たちの作品発表の場を確保しようとしたが失敗し、同年作曲のただ1つのオペラとなった《青ひげ公の城》も受け入れられず、民謡研究と《ルーマニア民俗舞曲》(1915)など民謡に基づくピアノ曲の作曲に没頭する。バレエ音楽《かかし王子》の初演が成功した1918年から、国外での名声の高まりによってハンガリーでの立場も好転し、さらに《青ひげ公の城》が初演され好評を得た。



バルトーク:ルーマニア民族舞曲 Rumanian Folk Dances(1915) Sz.56 から

1. 棒踊り Joc cu bata(Stick Dance)
2. 飾り帯の踊り Braul (Round dance)
3. 踏み踊り Pe loc (In One Spot)
4. 角笛の踊り Buciumeana (Dance of Buchum)
5. ルーマニア風ポルカ Poarga Romanesca (Romanian Polka)

ピアノ:バルトーク・ベーラ






バルトーク:ソナチネ Sonatina(1915) Sz.55

1.バグパイプ吹き Dudások(Bagpipers)
2. 熊踊り Medvetánc(Bear Dance)
3. 終曲 Finale

ピアノ:バルトーク・ベーラ






ピアノのための組曲 Suite opus 14 (1916)

1. Allegretto
2. Scherzo
3. Allegro molto
4. Sostenuto

ピアノ:バルトーク・ベーラ
録音:1929年



 1921年から22年にかけては二つのヴァイオリン・ソナタを書き、イェリー・ダラーニのヴァイオリンと自らのピアノで初演した。さらにダラーニに同行してイギリスやフランスで演奏旅行をするが、この時ラヴェルやストラヴィンスキーと会っている。この過渡期の二つのヴァイオリン・ソナタは、それまでに作曲した中で和声上、構成上最も複雑な作品であり、これを境に作風を転換させ、大規模な抽象形式ととり組んでいく。
 1923年には、ブダペスト併合50年祭のために委嘱を受けて《舞踏組曲》を作曲した。その後三年ほど作品を発表せず演奏会活動にやや力を入れるが、1926年にピアノ・ソナタやピアノ協奏曲第一番を皮切りに新しい創作期に入り、フルトヴェングラーの指揮と自らのピアノで初演する。ここから民族音楽の経験を、彼が尊敬する西欧の芸術音楽の伝統、特にバッハ(ポリフォニーと対位法)、ベートーヴェン(動機労作)、ドビュッシー(和音の色彩)、および当時の古典主義(ソナタ、協奏曲などの形式)と結合して、力に満ちた独自の輝かしい様式を生んだ。



バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番 (1937年-1938年) Sz.112 から

第1楽章 Allegro non troppo

ヴァイオリン:ゾルターン・セーケイ
指揮:ウィレム・メンゲルベルク
演奏:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1939年3月23日 アムステルダム (初演




 演奏家としては、1929年から30年にはアメリカやソビエトへの演奏旅行を行い、シゲティやカザルスらと共演している。彼の弦楽四重奏曲としてもっとも高い評価を受けている第三、第四弦楽四重奏曲、《弦楽器、打楽器、チェレスタの音楽》(1936)、《二台のピアノと打楽器のソナタ》(1937)などでは、黄金分割、さまざま音階の使用、和声の可能性の拡大(時々無調にまで至る)、鮮明な明晰さをもつアイデアの創造、新たなリズムの発見、変奏の非常に精妙な操作など、縦横に駆使した独自の理論の下に民族的であると共に、極度に複雑な構造と感情的な力強さへと彼を導く。この時期に書かれた、六巻からなるピアノ曲集《ミクロコスモス》(1926-37)をはじめ、 彼の作品にしばしば用いられているものに、生気に満ちた「ブルガリア風リズム」がある。これは、スラヴ系のブルガリアなどの民族音楽に使われる二拍と三拍の単位を不均整に結合した拍子である。また、「パルランド・ルバート」と呼ばれる、話し言葉のように拍が伸縮する自由なリズムがあり、さらに、旋律と一体となった民謡の様々なリズム型がある。音組織や和声、形式の面でもバルトークの語法は非常に興味深いが、このように彼は、民族音楽の豊かさとその生命力を示し、そこに深く根ざしたユニークな音楽を創造したのであった。



バルトーク:ミクロコスモス (1926-1939) Sz.107 第6巻から
From Mikrokosmos, Progressive Piano Pieces vol. VI

140. Free Variations (Variations libres/Freie Variationen). Allegro molto
142. From the Diary of a Fly (Ce que la mouche raconte/Aus dem Tagebuch einer Fliege). Allegro
149. From Six Dances in Bulgarian Rhythm (Six dances bulgares/Sechs Tänze in bulgarischen Rhythmen): no. 2

ピアノ:バルトーク・ベーラ
録音:1940年



 1939年、ナチズム支配の政治状勢に絶望、弦楽四重奏曲第六番を決別の歌として書き上げたのち、第二次世界大戦二年目の1940年にアメリカに亡命する。コロンビア大学での研究の他、ヨーロッパから持ち込んだ民俗音楽の研究に没頭するが、1943年初頭、健康を害して入院してそれらの活動はすべて中断する。当時ボストン交響楽団を率いていた指揮者クーセヴィツキーに依頼され《管弦楽のための協奏曲》を驚異的なスピードで完成し、これを契機に創作意欲を回復した。さらに、ヴァイオリン・ソナタを演奏会で取り上げる際にアドバイスを求めに来て親しくなったメニューインの 依頼で《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》にも着手し、1944年には両曲の初演にそれぞれ立ち会う。出版社との新しい契約で収入面の不安もやや改善され、健康状態も取り戻して民俗音楽の研究も再開した。しかしこれも束の間で、《ピアノ協奏曲第三番》と《ビオラ協奏曲》を着手するも未完に残したまま、1945年9月26日、ニューヨークのブルックリン病院で白血病のため没した。前者はほとんどできあがっており、草稿段階にとどまった後者とともに、友人でハンガリー系の作曲家タイバー・セアリー(シェールイ・ティボール)によって補筆完成された。



【作曲技法】
 作曲家としてのバルトークは、ドイツ・オーストリア音楽の強い影響から出発したが、民俗音楽の収集による科学的分析から、その語法を自分のものにしていった一方、他方では同時期の音楽の影響を受けたという両者とのバランスの中で作品を生み出すという独自の道を歩んだ。ただし、ソナタ形式を活用するなど西洋の音楽技法の発展系の上で成立しており、音楽史的には新古典主義の流れの一人と位置付けられている。彼にとって民族音楽は、自分自身の音楽の表現と本質、長・短調組織の克服、新たなリズム、旋律、音色への強い刺激の源泉であった。



民族音楽
 バルトークとコダーイは西欧の影響のない農民の民族音楽を収集し、さらに研究範囲を東欧に拡大し保存運動を生涯の仕事とした。民族音楽とかかわる彼の仕事には三つの段階がある。

① 伴奏づけなど直接の採用
② その素材による動機労作
③ その様式に従った新作

 第一次大戦までの原始主義者達のうち、ストラヴィンスキーはバロックの調性音楽を目指して狭義の新古典主義をとり、プロコフィエフもまた19世紀風の民族主義ロマン派のスタイルに後退した。しかしバルトークは、1920年代、30年代に全く独自の音楽語法を組織化して数々の傑作を生み出している。ただ、彼も1943年以後のアメリカ時代における作品群では、新古典主義的、あるいは民族的ロマン主義の作風に後退するに至るが、両大戦間のヨーロッパ滞在中の主要作、たとえば第三、第四弦楽四重奏曲、《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》、《二台のピアノと打楽器のためのソナタ》等では特異な語法による厳しい姿勢が見られる。一幕オペラ《青ひげ公の城》は、華やかなオーケストレーションの一部をR・シュトラウスに、歌詞の節付けの方法をドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》に、それぞれ影響を受けているが、その旋律とリズムとバラード様式はすべてハンガリーによるものである。まさにバルトークは芸術基盤を民族音楽から引き出したアイデアや原理、方法の上に置こうとしていたのである。



黄金分割
 黄金分割あるいは黄金比とは、一つの線分を長・短二つに分ち、全体の長さと長い方との比例が、長い方と短い方との比例と一致する、すなわちその長短の比が1:X=X:(1-X)となるような分割法のことで、造形美術の分野では中世には神の比例と称されたほどの非常に美しい比例関係である。この式から導かれる数の関係は中世末期のイタリア人のフィボナッチが見出した数列であらわされる。それはつねに第一項と第二項の和が第三項になるような数列である。調的なカデンツ構造を放棄してもなお、二小節のモチーフ、四小節の小楽節、 八小節の大楽節といった楽式から脱していない作曲家もあるが、バルトークはこのようなシンメトリックな楽節構成や倍音和声を形式の基本におくことの矛盾を強く感じ、これに代わって楽節のどんな細部も、また大規模な部分の分割をも同じ比例で統一的に実地できるような比例関係を求めたのである。



バルトーク:二台のピアノと打楽器のためのソナタ (1937年) Sz.110 から

第1楽章 Assai lento

ピアノ:スヴャトスラフ・リヒテル/アナトリー・ヴェデルニコフ
パーカッション:Snegirev, Nikulin, Volkonsky
録音:1956年





参考文献

著者:ポール・グリフィス/訳者:石田一志『現代音楽小史 ドビュッシーからブーレーズまで』(音楽之友社 1984年)
著者:アガサ・ファセット/訳者:野水瑞穂『バルトーク晩年の悲劇』(みすず書房 1993年)
著者:ひのまどか『バルトーク―歌のなる木と亡命の日々』(リブリオ出版 1989年)
著者:伊東信宏『バルトーク―民謡を「発見」した辺境の作曲家』(中央公論社 1997年)
著書:エルネー・レンドヴァイ/訳者:谷本一之『バルトークの作曲技法』( 全音楽譜出版社 1998年)
編集者:高橋浩子・中村孝義・本岡浩子・網干 毅『西洋音楽の歴史』(東京書籍 1996年)
著者:柴田南雄『西洋音楽史 印象派以後』(音楽之友社 1967年)
著書:オリヴィエ・アラン/訳者:永冨正之・二宮正之『和声の歴史』(白水社 文庫クセジュ 1969年)
編集兼発行者:淺香 淳『新音楽辞典 楽語』(音楽之友社 1977年)
日本語版監修:角倉一朗『U.ミヒェルス編 図解音楽事典』(白水社 1989年)










(2008年執筆)



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[ 2010/12/19 17:14 ] 音楽史 | TB(1) | CM(0)
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